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第1回 A.e.Suck:メディアを飛び越えるアニメーション(1/2)

A.e.Suck(えーいーさっく)

フリーランスのFlashアニメーター。名古屋市出身、東京在住。1979年からアニメーターとして多くのTV・劇場用アニメに携わる。1988年頃から徐々にデジタルに移行、1997年よりFlashアニメの制作を始める。セルアニメの技術をFlashで効果的に取り入れ、Flashアニメ界のトップを不動のものとする。現在はWeb、TV、映画、DVD、舞台、イベント、アミューズメント、プレゼンテーションなど、様々なアニメコンテンツをFlashで手がけている。ダイナミックトゥーン代表、多摩美術大学非常勤講師。著書に『Flashアニメーション完全攻略』など。

小学校2年生くらいから、自分で芝居の脚本を書いていました

─ 今日はよろしくお願いします。まず、簡単な経歴を教えてください。

えー、湾岸戦争の時に……。

─ 嘘はダメです(笑)

(笑) 生まれたのは、名古屋市の西、中村区というところです。都会っ子で。駅前に映画館もいっぱいあるんで、自転車でよく駅まで遊びに行きましたね。本屋も好きだったので、いろんな本屋を巡ったりもしました。

─ その頃から映画好きだったんですね。小さい頃になりたかった職業ってありますか?

小学生のときは、ドリフのボーヤ(メンバーの付き人のような立場。後の正式メンバーである志村けんも、元ボーヤ)になりたかったですね。卒業文集にもそう書きました。

中学生になると、吉本新喜劇に入りたくなって。やはり、お笑いをやりたいっていう気持ちがあったんですね。小学校2年生くらいから、自分で芝居の脚本を書いていましたから。そのときから芝居はお笑い中心でした。

─ ルーツはお笑いにあり。

そう。高校では、演劇部に入りました。そのときは役者になりたくて、夏休みに東海テレビへオーディションに行ったんです。

自己アピールのフリータイムが3分あったんですが、自分の番になると3分なんかじゃ終わらないんですよ。しゃべり出すと止まらなくて、「もうちょっといいですか?」とか勝手に言いながらしゃべりまくって。

なんとか終えて自分の席に戻ったら、一緒にオーディションを受けている周りの人からも「君はイケるよー」とか言われて、「そうかな? そうかな?」と調子に乗りましたね。

最終的には、面接官に「系統が違う、君はお笑い」と言われました。「えーっ!?」って思いましたよ。結局、2次で落ちました。

最初の3ヶ月間は、月給3万円

─ お笑いの要素が強すぎたんですかね(笑) ちなみに、アニメーターになるきっかけは、あったんですか?

オーディションに落ちて、その日の午後から暇になったんで、とあるデパートに行ったんですね。ちょうど「子供アニメ教室」みたいな催し物をやっていて、そこで『キャンディキャンディ』の作画監督が子供に絵の描き方を教えていたんです。

休憩時間に近寄って話しかけると、「この仕事に興味あるの?」って言われて、「あります」と言ったら、「明日も近くで教室をやっているから、絵を持って来てよ。ラクガキでいいからさ」って言われたんです。

でも、人に見せるものなんて持ってなかったので、徹夜して自己流のデッサンを何枚も描きました。そうしたら、「高校を卒業したら東京に来なさい」と言われたんです。幼少の頃から絵を描くのは好きでしたから、絵で食えるなら進路変更!って決めました。

─ なんと、その日のうちに進路変更ですか(笑) でもプロから直接のお誘いが。

「専門学校には行かないで、プロになったほうがいい」とも言われましたね。名古屋に住んでると、なにも接点がないんですよ。ツテもなにもない。例えばアニメーターになろうと思うと専門学校に行くしかないんですが、当時名古屋にあった専門学校にはアニメーション学科がなかったんです。

ちょうどその年の翌年にアニメーション学科ができるというので、見学にも行ったんですが、そこにいる先生には「アニメーターなんかやめて、グラフィックデザイナーになりなさい」と言われました。食えなくて死んでしまった人がいるし、趣味でないと成り立たない、と。30年近く前の話ですけどね。

─ 昔は、今のような専門学校もなかったですね。で、高校卒業後はお誘いをいただいた作画監督さんのところに?

と思ったら事情が変わって、東長崎(東京都豊島区)のスタジオエイトというアニメーションスタジオに紹介されました。専門学校を出てない未経験者ということで、線を描く練習から始めました。

それからは大変でしたね。最初の3ヶ月間は、月給3万円。4畳半のアパートを、一緒に東京へ出てきた友達と2人でシェアしてました。家賃が1万8千円だったので、9千円ですか。忙しくてほとんど会社にいましたけどね。

─ すさまじいですね……。

ところがその後、1年もしないうちにスタジオの経営が傾いて、翌年の2月くらいには解散になっちゃったんですよ。自分のような新人は使ってくれるところがないので、名古屋に帰るしかないのかなーと思っていたら、捨てる神あれば拾う神ありで、師匠(森 利夫。アニメーター。『タイガーマスク』や『マジンガーZ』、『デビルマン』などの作画監督を務める)と共に、練馬のスタジオコクピットというところに移籍できたんです。

そのときは、師匠が、スタジオエイトの動画マン(原画の清書や中割りをする人)の中から、スタジオコクピットに移籍させる5人を選んだんです。

─ 新人なのに、5人の中に選ばれたんですね。実力主義の世界だ。

そう。一緒に住んでいた友達もコックピットに入りました。

─ その後の生活は苦しくなかったんですか?

スタジオコクピットでは、10年以上アニメーターを続けました。動画の頃は枚数がこなせなくて貧乏が続きました。アニメーターは出来高払いですからね。月1000枚をクリアしたら原画マンにしてやると言われましたが、どうがんばっても月700枚くらい。2年くらいたったら「動画は向いてないのかも」ということで、原画にしてくれました。それからは順調でしたよ。映画やプロレスをよく観に行きました。

─ ひたすら描き続ける。

いや、雨が降ったら行かなかったり、結構ワガママでした(笑) 傘さして歩くのがヤでした。雨の日に交通事故に遭ったこともあるし。

─ ところでアニメーターの出社時間って不規則なイメージがあるんですが、どうなってました?

最初は朝10時に行っていましたが、3日目からはどんどん遅くなりましたね。社長には「せめて12時までには来ようね」とか言われてたんですが、そのうち「せめて14時までには来てね」に変わって、最後には「16時には来いよバカヤローてめぇ」って(笑)

─ 拾ってもらったのに(笑) でも、それでよくクビになりませんでしたね。

アニメーションの制作会社では、しばらく会社に行っていないと、その席に新人が入って使われちゃうんです。みんな社員ではないので、席を確保しておく必要がない。弱肉強食。

でも、私が会社に行かなくても、自分の席が埋まることはなかったですね。それはありがたかったです。

─ すごい。それも実力あってこそ、なんでしょうね。

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